GUNSROSE    
        
 ガンズ アンド ローズ

 

 俺達は、俺達でしかない。
 しかし、俺達は確かに俺達を生きている。

 すぐる
 卓は、岸壁で蜃気楼のような漁船の影を見つめていた。
 とにかく暑い。
 たらたらと絞り出すような熱射が髪の先から地肌を貫き、頭の中がジンジンと霞む。
 岩場の反射も、足から腰からむせ返してくる。
「何してんの?あんた」
 誰かの声がした。振り向いて確かめるのさえ億劫だ。
「気が狂うよ。さっきからずっとで」
 目の端を白い布切れがかすめた。
 水平線に消え入る寸前の船影が遮られ、目だけやたらと大きいガキがしゃがみ込んで俺を見つめている。
「るせぇな、どけよ!」
「変な奴なんだ、あんた」
「どけったら、どけよ!」
 俺はそいつを突き飛ばしていた。

 水平線にはもう何も無かった。
 熱し切った頭の中で、しびれ切っていた感情が急に復活した。
 あえいでいた感覚、それは怒りだ。
 何の為にドロップアウトしてこんな旅に出て来たのか、その答えが、あの船にあったような気になっていた。
 雄々と連なる海へ、今にもぶっ壊れそうな船が出て行く。
 水平線を越え、陸の見えないただ一面の海へ。

 振り返って睨みつけると、そいつは頭から血を流していた。
 かわいくないガキだ。涙さえ見せずに、じっと俺を睨み返している。
 頭から突き刺してくる熱射が俺の脳天を射抜いて、苛立ち煮詰まった怒りが身体中に弾けた。
 何が悪いかと言えば、

『すべてこいつのせいだ!』

 沸騰した頭の中に声がして、俺はそいつに飛びついていた。
 ただ熱だけが、俺を取り巻くすべてだ。
 そいつは睨み返したまま、何かを叫んで逃れようと抵抗したが、薄っぺらな胸を押さえ付けると静かになった。
 簡素なワンピースの裾に岩間の砂がまみれ、角に当たり、引き千切られた。
 額から伝った鮮血が髪に砂と混じり、浅黒く細く硬い腕が俺を押し退けようとパタパタと動いたが、
 白い布を掠め取って開いた胸は驚くほど白く、降り注ぐ熱線を思う存分に跳ね除けて輝いた。
 パンダみたいな奴だ……。
 痩せこけて汐の匂いのするパンダ。
 俺は水平線に消えた船を思い描きながらそいつを抱いた。硬く閉ざされた脚が、俺の水平線かもしれない。
 瞬間、そいつは、俺の腕を外すくらいに大きく仰け反ると「ギャッ!」と短い声を上げた。
 暑さが一気に弾けた。
 水平線には、もう本当に何も無いのだ。
 そいつを放り出すと、又、水平線を見つめた。
 爛々とした海は、そこで平面的な空にぷっつりと切られている。
 ピクリともそよがない風。熱だけが、絡み付いて離れない。
 目の端に写るそいつは暫く動かなかった。視線も感じない。

『俺は何をしたのだろう』

 すべては白日夢、そんな気がした。
 あの船影さえも。

 ボロきれと化したワンピースのそいつは、のっそりと起き上がると、フラフラと岸壁の端に立った。
 俺の視線はゆっくりと引っ張られる。
 額の血は既に乾いて、ただの褐色の汚れになり、脚に伝い落ちる鮮血の紅を引き立たせていた。
 
「あんたなんか大っ嫌い!」
 そいつは気丈に睨みつけたが、その瞳には涙が張り付いていた。
 喉が渇いていた。
 そうだ、俺は水が飲みたかったんだ。
 涙など何の役にも立ちはしない。
 そいつはそれだけ言い捨てると背を向け、ボロきれを自分で剥ぎ取って海へ投げた。
 つくづくパンダだ。
 紅い幾筋かの線はそのままに、そいつは肉薄な脚を揃え、ゆっくりと姿勢を正すと、フワリと飛んだ。
 岩場からそいつの姿は消えた。
 軽く上がってきた水音が、一抹の涼風の如く、少しばかり熱を下げてくれた気がした。
 船の代わりにそいつが消えるのを見た。
 ただそれだけのことだ。
 俺はこびりついた褐色のシミをこすり取ると、水を探してそこを離れた。
 バイクもすっかり灼きついていた。
 19になって迎えた夏が、終わろうとしていた頃だった。

 

 持ち金を使い果たして東京に戻った。
 バイクを止めると、1階の俺の部屋の窓が開け放たれていて、窓際のベッドの上には、
「やぁ、やっと帰って来たのか」とくたびれた顔があった。
 俺はそのまま靴を脱ぎ捨てて窓から飛び込み、そいつの上に転がった。
「痛てえなぁ、重でぇよ!」
 勝手に人の部屋に入り込んでいた無礼な客人は、しかめっ面で俺を迎えた。
「新学期が始まったってのに、一回も、顔出してないじゃないかよ」
「俺、辞めた、学校」
「えーっ! マジかよ! 卓」
 男ながら半端な美女よりは、数段美人の沢田はベッドから飛び降りて叫んだ。
 こいつのせいで俺の美意識は麻痺していると、フェードアウトで消えた女の1人に言われたことがある。
「当然さ」
 ヘルメットを外すと、頭に充満していた熱がスパッと霧散した。
「何、考えてんだよ、お前。去年どんな思いしたか、もう忘れたのかよ。せっかく受かったってのに、それも、奇跡的に!」
「受かったからそれで気は済んだ」

 去年は確かに、俺の方は無理だと、二重顎の担当に反対されたというだけで決めた志望校に、熱意を燃やしてみたが、
 受かれば本当にそれだけで良かった気がしている。
 大学生になって1人暮しを始めると、意図したわけでもないが、沢田のマンションにほど近かった為、
 奴は、豪奢な部屋の他に、狭くて散らかし放題の俺の部屋をセカンドハウス代わりにしているつもりらしかった。
 雑多な八畳の部屋の中には、俺の知らない物が半分以上ある。
「バカなこと言ってんなよな、本当、何、考えてんだよ」
「何も考えてねぇ」
 沢田はしっかり呆れていた。
「そりゃ、そうだろうよ。……しかし、ほんっとにバカだよな!」
「お前に言われたかねぇよ!」
 霧散していた熱が、再びじわりと集まって来るような気がする。
 沢田は、まだ何か言いたそうな目をしていたが、
「まぁ、それがお前か」と諦めて笑った。
 尖っていた苛立ちが撫で付けられて、脆くなってゆくのを感じる。
「親には勘当されちまったし、本物のハングリーなんだぜ。何かおごれよ」
「たくっ、しょうがないなぁ」
 沢田は笑いながら細い指で乱れた髪を直した。こいつの財布にはいつでも万札が十枚近く入っている。

 中二の頃、席が隣り合った時には、こいつの家族は既に海外赴任していて、オジさんの娘だとかで女社長をやっている、
 要するに親戚のオバさんの所に居候していた。オバさんの希望でもあったらしい。
 最初はその人を『おばさん』と呼んでいたが、そのうち『麻子さん』と名前に変わり、今では『麻子』になっていたが、
 何事にも悪びれず、正直なところが奴の一番の美点だ。
 他人に影響される奴では無いが、そんな部分を真っ直ぐに伸ばせたのも、
 やっとダブルスコアにまで追いついたその麗しい後見人のおかげだろう。
 奴の初体験は15で、俺は一年半の遅れをとった。

「何してきたんだ?」
 いつもの店のカウンターに落ち着くと、すぐに出てくるハーパーのロックのグラスをかざして沢田が言った。
「何って別に……しいてあげればムルソーかな」
「ムルソー?」
「そう。『異邦人』、アルベール・カミュさ」
「アハッ。似合わないこと言ってんなよな」
 俺はグラスの淵を見つめて、あの水平線の色を思い出してた。
 尖った氷が褐色の水面にそびえている。
「聞きたかねぇか?俺の異邦人」
「聞いて欲しけりゃね」
 そう言いながらグラスを置いて斜に構えると、沢田は俺の目を刺した。

 こいつの瞳は、いつでも、俺を裸にする。
 いや、それ以上を見通す。
 だから、脳裏によみがえってきた白日夢を話してしまいたくなった。
 水平線と船影と熱と、ガキと鮮血と上がった水音と、渇いた喉と灼けついたバイクの話を、いっしょくたに話すほど、
 その輪郭はぼやけてくる。
 こうして沢田と向っていると、すべては本当に虚無だった気がしてくる。

「仕方ないよな。そういうことじゃ。」
 黙ったまま終わりまで聞いていた沢田は、ちょっと間を置いてそう言った。
「だろ!……でも、何がだ?」
 沢田の言葉に一瞬感動したものの、浮かんだ疑問をそのまま口にした。
「何がだって言ったって、お前なぁ、全部だよ!」
 沢田は面倒臭そうに断言した。
「全部か、そうだよな!」
 納得せざるをえなかった。
 沢田がこう言ってくれるだろうことがわかっていたから、話せたのかもしれない。
 その件についてはその一言で片付いてしまった。

 

 俺はとりあえずバイトを始めた。
 何でも良かったから最初に目に付いた引越しの助手になった。
 週に3、4日で十分だったが、身体を動かすのは嫌いじゃない。
 余った時間は、何をしたいかを考えているだけで過ぎて行く。
 しかし、一つ失敗だったのは、冬は寒いという自然の法則を考えに入れなかったという事だった。
 偶然、沢田のマンションへの引越しがあった時、見つけられてしまい、奴は手伝おうともせずに笑いながらずっと見ていた
 が、大きなお世話で声援だけはしっかりと送ってくれた為、先輩のおやっさんに 
「ああいう友達だけは持つな」と説教された。
 そんな沢田にもちょっとした事件があった。
 写真週刊誌に、『女実業家の某女史、美少年を伴って深夜の徘徊』と題されて、写真ともども載せられてしまったのだった。
 沢田当人は何処吹く風で、
「事実だぜ。こんな程度じゃ甘いね」と、その件については平然としていたが、女どもの心理というのはよくわからないもの
 で、以前に増して毛色の違った女にまで言い寄られ、面倒で困ると嘆いていた。

「俺にとって、必要な女の存在のすべては麻子だ」
 沢田は言う。
「母親であり、恋人であり、友人であり、姉であり、妹であり、他に何かあったっけ?」
 俺のライブラリーに必要な単語はそれ以下だ。
「じゃあ、何で他の女と寝るんだ?」
 沢田はそっけなく答える。
「男だからさ」
 俺達はそんな風に時を食いつぶしていた。

 

 東京に遅い雪が降った日、バイトは午前中の一件だけで休みになった。会社へは戻らずに渋谷をふらついたものの、
 いい加減に飽きて、帰ろうと駅へ向かうと、ハチ公の前にしゃがみ込んでいた女が、突然駆け寄って来た。
「あんた!」
 後ろを振り返って確かめたが、誰もいない。
「俺?」
 そいつを見据えてみたが、何も浮かんで来ない。
「あたし。あんたのせいであの町に居られなくなっちゃったんだからね!良かった!こんなとこで会えるなんて!ラッキー!」
「あっ」
 半年分だけ伸びた髪には、ペラペラのウェーブが付けられ、不釣合いな厚化粧がよけいに幼さを強調している。
 汐の匂いのしたパンダが、人魚の成り損ないに変身していた。
 無視して行き過ぎようとしたが、そいつは俺に並んで付いてきては、喋り続けた。
 振り払うのも億劫で、再び街中へ引き返すと、額に落ちてくる切片を仰いだ。

「あたし、死んだと思った?大ボケなんだけどさ。あたし、海の子なんだよね。泳ぐつもりもないのに泳いじゃってさ、
 服まで捨てちゃって、裸で歩いて帰るしかなくてさ、もうどうでもいいと思っちゃって。一日で町中の大評判。やっと中学
 終わりだからさ、タンカ切って出て来ちゃった。親いないからさ、あっちでもちょうど良かったみたいなんだよね」
 そいつは擦れ違う人々を一々観察しながら喋り続けている。
「先輩の所に来たんだけど、カレシが一緒でさ、あんまりお邪魔虫してても情けないじゃん」
 聞きたくなくとも聞こえてしまうそいつの声に、俺はふと違和感を感じない違和感を感じた。尻上がりの'カレシ'、
 とって付けたようでもない'じゃん'。
「お前、どうして、ナマってねぇんだ?」
 そいつの顔は無邪気な赤ん坊みたいに崩れて、
「そう思う!良かった」とはしゃいだ。
「あの町、大っ嫌いだもん。物心付いた時からずっとテレビとかで覚えてさ、こういう話し方してたんだ。
 だから、よけいに変な奴って、シカとされてたわけ、アハハ」
 ガキの心理も、女心とかいうやつも、俺には全く苦手な分野だが、こいつの場合は、はるかにもっとわからない。
『大っ嫌い』と涙を溢れさせて睨み付けたことのあるこの俺に、無防備で笑いかけて来る。
 雪は止むどころか呪いの呪文の如くに降り注ぎ、とうとうそいつは俺の部屋まで付いて来てしまった。
 理解困難も限度を越えれば、かえって安心出来るものなのかもしれない。

 予期していたものの、やはり沢田が居た。
 手を真っ赤にして高さ50センチくらいの雪塊をペタペタと叩いている。
「お前、人んちの中で雪だるまなんか作ってんなよな」
「ひぇー、かわいい」
 本物の異邦人は歓声を上げた。
「でしょう」
 何事にも動じない沢田は、満足げな笑顔で答えた。
「うん。かわいいから、とりあえず、トイレどこ?」
 そいつは勝手に上がり込むと沢田の指差した方へ突進した。
 脱ぎ捨てられた真っ赤なハイヒールがパッタリと倒れた。

「お前、いつからロリコンになったんだ?」
 くわえ煙草で雪だるまを点検しながら沢田は言った。
「そんなんじゃねぇよ。付いて来ちまったんだよ、図々しく」
「なーにしてたんだよ、半端に軟派してんじゃないよ、まったく」
 雪だるまは頭を少しばかり削られて完成したらしい。
「冗談としちゃつまんねぇんだけどさ、あいつなんだよ、例の異邦人。偶然捕まっちまって……」
「ア……。アハハハ! そりゃすごい!」
 沢田は盛大に笑い転げ、雪だるまは転倒して、打ち首の憂き目に合ってしまった。
「きゃー大変」
 出て来たそいつは、その頭を拾い上げて生き返らせると、沢田と一緒になって打撲の治療を始めた。
「やはり野に置けゆきだるま」
 沢田はそんなことを言って窓を開けると、完治して汗をかき出したそいつをバイクに乗せた。

「君、名前は?」
 沢田が訊くまで、そいつにも名前があるということを考えもしなかった。
「あたし、そうだなぁ〜」
 そいつは、沢田が置いていく古びたロック雑誌の斜塔の真ん中から一冊を抜き取ると、斜塔はあっけなく崩れた。
 どこまで持ち堪えられるか、密かに期待していた俺の気も知らないで、そいつはパラパラとめくり出し、
「この人何て言うの?」と、1ページを開いて見せた。
 俺の代わりに沢田が答えた。
「パティ・スミス」
「何する人?」
「昔、パンク・ロックの女王様。今、お母さんロッカー」
「フーン。松田聖子かぁ。じゃあ、あたし、松田パティ」
 さすがの沢田でも、殆ど呆れていたが、
「じゃあ俺は、沢田キース・ジャン・ジャック・涼。よろしく」
 と、隣のページの二人分のファーストネームにミドルネームまで間にくっつけて自己紹介した。

 パティはそれ以来、居付いてしまった。
 居付いたと言うよりは、やはりセカンドハウスみたいなものだった。
 沢田は、どんなに遅くなっても泊って行くことはないが、パティに帰るところはない。
 俺の隣に潜り込んで来ては安らかな寝息を立てるが、抱く気にもなれない。
 ただ暖かいのはいいかもしれない。
 女人禁制だった部屋も少しはきれいになったが、ますます何処に何があるのかわからなくなった。
 沢田はそいつをパティちゃんと呼び、俺はお前とかてめぇとか呼び、パティは俺をあんたと呼び、沢田を沢田と呼んだ。
 微妙な波長が同調してるのか、反発してるのか、互いの邪魔になることも無かった。

 

 新しい季節の到来はいきなりだった。
 風の色が違って光り出すと生暖かい空気が満ち溢れ、薄暗く霞む見飽きた風景の中に部屋の灯りがともっていた。
 ドアを開けると、沢田とパティが絡み合っていた。
 床の隙間で沢田の肌とパティの肌の色が柔らかな光の中に浮き立っている。
 沢田は俺に向ってウィンクし、俺はそのままいつもの店に向った。

「お前、どうして追い出さないんだ? どこもいいとこないじゃないかよ」
 後からやって来た沢田は両手で頬杖を付いて言った。
「あん?」
「ルックスは並みだし、性格メチャクチャだし、身体なんてガキのままじゃないかよ」
「お前!そんなこと考えて、寝てみたのか?!」
「まぁな。そればっかりでもないけれど」
「他には何だよ?!」
 沢田はマルボロに火を付けた。
「お前の持ち物、点検しときたくてさ」
 そう言って、すぼめた口先から煙を吹き出した。
 透明な横顔にはもう何も残っていないようで、こんな時の沢田は、俺には全くわからない。
「何だよ、それ?」
「いいんだよ。別に」
 沢田は俺の目を見なかった。

「あの子さ、何してるか知ってるか?」
「全然。俺には関係ねぇもん」
「俺にさ『痛くなかったの、沢田が初めて』って不思議そうに笑うんだぜ。
 『痛いの我慢するから。お金貰えるんだって思ってる』ってさ」
 俺は何を言っていいのか見当もつかない。
 すべては俺のせいだとでも言いたい訳でもないだろうが。
 こいつは金を払ったのだろうか。

 それから沢田は遠い目をして、減らないグラスの中に何かを見つめていた。
 こういう時の沢田は、何を考えているのかはわからなかったが、何について考えているのかは、わかっている。
「麻子はさ、定期的に泣くんだ。大体が正体不明なくらい酔っ払って帰って来る時でさ、
 『涼ちゃん、あたし、辛いのよ』ってベッドに倒れ込んでくる」
 沢田の部屋にベッドは無かった。
「片手で麻子の手を握ってやって、もう片方で編み込みの髪を解いてやりながら、いつも同じこと言ってやるんだ。
 『お泣きよ、麻子、我慢しないで』それでやっと涙を流せるんだ。麻子は」
 俺の知らないところの沢田が何だか痛い。
「『どうしてそんなに優しいの、涼ちゃん』麻子は俺の手に頬を擦り付けて言うんだ。
 『麻子を愛しているからだよ』って答える。
 『よしてよ。空しくなるだけだわ』麻子はそう言って、俺の手を離すと泣き疲れて眠る」
 沢田は三本目の煙草に火を付けようとして辞めた。
「翌朝にはすっかり忘れて、『涼ちゃん、お食事出来てるわよ、早くなさい』って晴れ晴れとした顔してる」
 グラスの氷が溶けてカタンと落ちた。

 一度だけ麻子さんに会ったことがある。容姿端麗、絵に描いた様なキャリアウーマン。
「涼ちゃん、何か飲み物持って来ましょうか?」
「うん」
「紅茶でいい?」
「やだ、麻子、お茶入れるの下手だから」
「やあね、一度だけだったじゃない。悲惨だったのは」
 そんな会話がちょっと眩しかった記憶がある。

「麻子の一番不幸なところは、俺が麻子を愛しているってことを信じられないところだ」
「本当に愛してるのか?」
「ああ。愛してる女は、一人だけさ。いくら金があったって、それで俺を繋ぎ止められるなんて、そんな奴じゃないってこと
 は、麻子が一番知ってるはずなのに」
 沢田は深い瞳で俺を見据え、
「愛を信じない女ってのも、いいもんだぜ」 
 と冷たい微笑を浮かべた。
 沢田の凄いところは、こういうところだと、何とはなしに頷いてしまった。
「お前さ」
 沢田は言いかけて止めた。
 多分、パティのことを言いたかったのだろう。

 

 パティも確かに金持ちだった。
 年相応なのは結局、俺だけだった。
 いつ追い出すんだと訊いた割に、沢田とパティは気が合っていた。
「パティちゃん、それもいいけどピンクの方がかわいいよ、そのメッシュ」
「ピンク? そういうのも出来るんだ」
 沢田は、極端にかけ離れた精神構造を二層で共用しているようだ。
 パティは俺よりは沢田の方とよく話す。そのくせいつでも俺の隣に座っている。
 俺はもともと口数は少ない。
「あんた、これ、捨てちゃってもいい? 邪魔くさい」
「俺のじゃねぇ」
「ダメ。どこでもいいから置いといてよ」
 ここの家賃を払っているのは、唯一ハングリーな俺だという事実を、こいつらに言っても仕方ない。

 パティは気が向くと埃まみれの台所に立っては意外とまともな物を作った。料理だけは誉めてもいい。
 床に広げて、皆、勝手な格好で勝手なことをしながらの食事になる。
 化粧しながらとか、ヘッドホン聴きながらとか雑誌をめくりながらとか。
 俺が一人になる時は殆ど無かった。
 別段、一人だろうと二人だろうと三人だろうと、何かが変わるわけでもないが、物理的に涼しい。
 そしていつでも考えている。
『俺は何を成すべきなんだろう』と。
 誰でも考えていることだろうが、俺の何かは違うんだ。そう考えているのも、皆、同じなのだろうけれど、
 と思いながら考える。

「思考の大部分は無益どころか害にしかならない。ほんの一粒ほどの益を得る為のダイアモンドの原石みたいなものか。
 ウランやプルトニウムって方が当たってるかな。
 まっ、俺は傷つかないダイアモンドより、傷だらけのガラス玉の方が美しいと思うけれどね。そう在りたいよ」
 それが沢田の持論だった。
「俺はダイアモンドになりてぇな、絶対!」
「お前なら、そのまんまで十分だよ」
 沢田は苦笑する。
 俺には沢田こそがダイアモンドなんじゃないかと思える。
 傷つきたいのに、傷ついてしまえない、そんなダイアモンドだ。
 それは幸福なことなのか、不幸なことなのか、俺にはわからない。
 しかし、俺にだって工業用のダイアモンドくらいにはなれるだろう。

 

 薄紅に染まった木々が目につくようになると、俺の部屋の中にも桜が咲いていた。
 どっちが持ち込んだのかはわからないが、二枝あったから、多分両方の仕業だろう。
 沢田の半分とパティはどこかで似ている。俺は怒りたいよりも、笑いの方が先立ってしまって思わず水をやってしまった。
 
 桜を見ると、いつでも思い浮かべるものがある。それは特攻隊。
 俺が生まれた時、おやじは既に結構なおっさんで、翔ぶ機を失ってしまった特攻隊員だったらしく、
 ひどく酔っ払うといつも『同期の桜』を歌っては、一人で泣いていた。
 戦争を知らない世代より、もっと知らない世代の俺は、どこかでそんな戦争に憧れている。
 国粋主義なんて者じゃ、もとより無いけれど、国の為にでも何の為にでも、必死になって文字通り本当に死ねるんなら、
 それは最高の生き方だと信じている。
 そんな話を沢田にしたことがある。
 同意を求めた俺に、
「お前みたいな希望者だけ、どっかの島にでも集めて、好きなだけ戦わせてりゃ、世の中、良くなるかな、悪くなるかな」
 と、取り合ってくれなかった。
「それじゃ意味ねぇよ!何の為にだかがわからねえもん!」
 と突っ掛かると、
「ハハ、自分の為でいいじゃないか。他に何が必要なんだよ」
 と笑った。

 花の一つがハラリと崩れると、沢田が肩に頭をうなだれたパティをぶら下げて現れた。
「そこで拾ったんだよ。死んでてさ。手ぇ、貸して」
 あっけに取られた俺は、沢田に言われるまま片腕を抱えてベットに寝かせた。
 顔にまで擦り傷を作って、滲んだ血の色が蒼ざめた硬い肌に彩りを添えている。
「ヤバい客に捕まっちまったんだな、まったく」
 沢田はパティの服を緩めて、一つ一つ傷を確かめながら呟いた。
 パティの肌に沢田の指が走る。肩にも胸にも血の跡が滲んだままこびりついている。
 つかの間のデジャヴゥを沢田の指がなぞり、俺の内部に、さざ波が走り抜けた。
「どういうことだ?」
 何をしていいのかもわからず、二人を交互に見つめた。
「SMだよ、SM」
 沢田は面倒臭げに言い捨てた。
「あ……」
 パティはゆっくりと目を開いた。
「パティちゃん、人は選べって言っといたでしょう。こんなになっちゃって。本当にもうっ、困った子だねぇ」
 ベッドの端に腰掛けた沢田は微笑み半分で声をかけた。
「だって、普通の人だったもん、わからないよ。沢田が教えてくれた三つの条件はクリアしてたんだから」
 パティは叱られた幼児のような顔をして、はだけた胸のまま沢田を見上げた。
「ちょっと、甘かったか」
「そうだよ。沢田の責任! なんてね」
「バーカ」
 沢田とパティもそんな光景を眺めながら。これまで、どんな会話が二人の間にあったのかを知った。
 俺の胸には何だか奇妙な感情が瞬間的にフラッシュして、すぐに消した。

『この苛立ちは、何だろう』

「卓、救急箱かなんか無いか?」
「あるわきゃねぇだろ。俺より知ってんだろ、お前らの方が!」
 俺は厭な奴になった。
 沢田の柔らかかった表情は、瞬時にきつくなって俺を見返した。
 奴の鋭敏な感性が、俺でも理解していない俺以上の俺を、睨みつけている気がする。
「ある。そこのボックスの後ろに。あたしが買って来たやつが。かわいかったから」
 沢田に睨みつけられたまま、俺はパティの示したボックスの後ろを引っ掻き回して探し出し、
 ショッキングピンクのらしき物を手渡した。
 沢田は何も言わずに受け取ったが、一度、フッと目を伏せると、戻した時には笑いかけて来た。
「怪我してる時くらい、優しくしてやれよ」
 それからパティに微笑みかけ
「卓に惚れてんだもんね」と言った。
 事の信憑性は話にならない。俺もパティも何も言い返そうとさえ思わなかった。
 沢田流の仕返しは「技あり」で、仕掛けた当人だけが、何かを置き去りにした瞳のまま、ニンマリした。
 沢田の沢田らしい顔かもしれない。
 最初の日、沢田が帰った後で、
「女みたいな顔した奴だね」とパティが言った。
「ああ見えても奴は柔道の有段者さ」と返すと
「それが何?顔は顔でしょ」と言われ、それはそうだと納得してしまったことがある。

 一応の手当てが済むと、「これは俺の分」と、蕾が多い方の枝を肩にして、沢田は帰って行った。
「惚れてあげようか?」ときいたパティは、「要らねぇ」と答えると眠ってしまった。
 俺は、瞬いた記憶を辿った。

 去年の今頃、散り急ぐ花弁の舞うキャンパスで、沢田が両手でそれを受け止めている光景が見えてきた。
 少女趣味だと俺が笑ったら、真面目な顔で、
「俺も麻子も好きなんだよ」
 と集めた花びらを一気に放り上げた。
 儚い花弁は、閉じた瞳で仰いだ沢田の横顔に降り注いだ。
 今でも、はっきり覚えている。
 バンドエイドだらけの持ち主の下に、残された桜を移動させると、俺は床に寝っ転がった。
 寝返りを打ったパティからバンドエイドの一枚が落ちて枝に掛かった。
 いつの間にか眠りにつくと、狂喜乱舞の桜吹雪の中、沢田がカミカゼに乗っている夢を見た。

 

「高岡君、高岡君」
 俺を呼び止めたのはフェードアウトの女の一人だった。俺はいつでもマジだから、遊びは遊びとして、マジに徹する。
 女の方が途中で付き合いきれずに、自然消滅。最も楽な成り行きだ。
「元気?久し振りね」
 男を振って来たところだと言った女は、俺の腕を取り、暇つぶしにホテルに入った。
 名前はもともと覚えていない重そうな胸が顔より印象的な奴だったが、それは一年経っても変わっていなかった。
 タプタプの胸の狭間で、閃いたのは沢田とパティの肌の色……水平線の面影が、その瞬間に瞬いた。

「やあね。相変わらず、誰思い浮かべて、イッてんのよ。心ここに在らず、なんだから」
 そいつは背中のファスナーを器用に操りながら鏡を覗き込んで化粧の修正箇所をチェックしている。
『相変わらず誰思い……』
 俺は心の中で復唱した。
 こんなことを言った奴は、他にもいたような気がした。
 誰かを思い浮かべていたつもりなど俺にはない。但し、今日を除いてはだが。
「やだ。待ってよ」
 大して変わりばえしない化粧に没頭しているそいつの叫び声を背中で跳ね返して、俺はさっさと外に飛び出した。
 まだ日差しは残っていて、どういうわけか安心した。
 俺は太陽が好きなのかもしれない。

 電話ボックスに入ると、うろ覚えのナンバーを繋いだ。
 パティはバンドエイドを飾ったまま元気になったが、沢田は姿を見せていなかった。
 五回目で掠れた声にあたった。
「来いよ。来てくれよ」
「なんだよ、その声は?」
「風邪」

 鍵の開いていたドアを開くと、沢田はソファで毛布にくるまって、ピンク・フロイドの『狂気』を聴いていた。
「何やってんだよ、熱があるじゃねぇかよ!」
 桜みたいな色をした沢田の額は真夏の岩だった。
「こんなもんでも聴いてりゃ、下がるかと思ってさ」
 空ろな瞳で笑いかけて来る。
「バカヤロウ!お前、仮にも医学生だろ!」
「あ、よせよ」
「いいから!」
 無理やり抱え上げると、沢田の身体には、思いがけなくしっかりした重量感があった。
 俺はいつでもどこかで、こいつの何かを滅却している。そんな気がした。

「麻子さんは?」
 大きなベッドに埋まった沢田の頭の左上に、女物のシルクのパジャマがきちんとたたまれて置いてある。
「パリなんだ。このところ仕事の方、いろいろと慌しくて、大変らしいんだ」
「言ってくれりゃいいだろが、すぐに。一人じゃなんにも出来ないだろう、お前は」
「卓んとこ、電話もないじゃん」
 ちょっと責めたような沢田の唇は乾いていたが、瞳には、熱の為か怪しい光りが潤んでいる。
 医者が嫌いな医学生は、解熱剤だけ飲んで眠った。
 それから二日間、俺はそのまま、我侭な病人のお守をして過ごした。
 二度入った麻子さんからの電話には「変わりないよ。ちゃんとやっているから」と答えていたが、
 ちゃんとやっているのは俺だけだ。
 ベッドサイドの満開だった桜の花は、二夜ですっかり枝だけになった。

 

 三人とも復活した。
 五月の終わりに、俺達は一日ずつ違った誕生日をまとめて祝った。
「パティちゃん、誕生日も自分で決めたの?」
「まさか。人生だもの」
「そうだね」
 こいつらの会話には参加したくない。 
 食いたくも無いケーキのローソクはなぜか七本だった。

「大マゼラン雲の中性子の回転速度、知ってるか?」
 沢田は突然言い出した。
「超新星爆発のヤツか?毎秒二千回転!」
「やっぱり知ってたか」
「そりゃあね。月食、曇りで見れなかったから」
 俺はチグハグな自分の言葉に、沢田以上に驚いた。妙な思考回路が移っちまったのかもしれない。
「ちょっとでも回転おとすと、自分の重力でブラックホールになるんだってな」
「ああ。そうだぜ」
「卓みたいだな」

 パティはダイエット中だと言ってケーキの生クリームを剥がすのに熱中していた。
「パティちゃん、ムダ、ムダ」
「やっぱ、そう思う?」
 沢田の言葉で、パティは退けておいたクリームを一口で食べてしまった。
 沢田はバカ笑いしたが、パティは結局、平気で俺の分まで食べ尽くした。落とすべき肉なんて、どこにも無い。
「二十歳を機に、禁煙する」
 沢田はありふれたことを言ったが、こいつの場合は、本気だから許してやろう。
 パティは、吸いかけの煙草ごと渡されて、涙を流してむせ返り、十六歳の誕生祝いのマルボロは灰皿とともにゴミ箱行きに
 なった。

 また夏がやって来る。 
 二十歳になった俺達に、また夏がやって来る。
 季節だけが、変わってゆく。

 

「卓だけ夏休みのない夏を迎えるんだな」
 久し振りのカウンターで、グラスの氷を突っつきながら沢田は言った。
「そうだな。別にどうでもいいけど」
「なぁ、卓」
「うん?」
「あの子にも、生理ってあるんだな」
「えっ。な、何だよ。いきなり」
「ちょっと、不思議な気がしてさ」
 俺には不思議どころか、異次元かもしれない。
「お前、すんげぇ貴重な体験したんだぜ!」
「何がだよ?」
「あの子、初潮の前に初体験したんだって」
「えっ……」
「精神的に早熟な奴って、結構、遅く手だったりするからな。身体の方は。まっ、あの子の場合、どっちもって気もするけど」
「……そんな体験、俺は要らねぇ!」
「ハハ、そうだよな」 
 沢田は素直に同意してくれたが、氷ばかりを構っていた。沢田の指で、クルクルと回る。
「生理中って、綺麗なんだよな。どういうわけか。不思議だよな」
 俺の氷は、ガタンと傾いた。
「誤解すんなよな。あの子のことじゃないから」
 さんざん弄んだ氷のグラスを、沢田は一気に飲み干した。飲み干して、遠い目をした。
 じゃあ誰のことなんだと笑って言い返してやれればよかったが、俺から聞きたくはなかった。
 一つ置いたカウンターの女が、宇宙人でも見るように上から下まで沢田を見渡していたが、本人は一向に気にしなかった。
 それにしても、俺の知らないところの沢田とパティの会話というのは、一体、どうなっているんだか計り知れない。

 俺はパティを抱かない。
 沢田はどうだか知らない。
 ただ、何と呼んでいいものなんだか、三人の間には、妙な、連帯感みたいなものが、確かに出来あがってしまっていた様だ。
 自由という連帯感。
 補いもしなければ、奪いもしない。
 そんな関係だ。

 

 ありったけの威力を誇示しているようなやたらと強い梅雨前線は、なかなか去らなかった。
 そんな中で俺の部屋にはビデオデッキが増えた。沢田は俺の部屋を粗大ゴミ置き場にもしている。
 バイトから帰ると、二人が泣いていたので入るのをためらわれたが、
『フィーリング・ラブ』とかいう青春映画を見終わったところだと聞いて呆れるしかなかった。
「この子、可哀想な子なんだけど、眉毛があんたでさぁ」
「言えてる。そこがまた、泣かしてくれるんだよ」
 言いたいことを言われた俺は、雨の中での引越しで張り付いたシャツを放り出すと、シャワーを浴びに行った。
 濡れたタイルに沢田の髪の毛が張り付いていた。 
 時折、沢田からかすかに漂ってくる、俺にでも上等とわかる女物の香水の残り香が鼻腔にしみた。
 いきなり、あの水平線が浮かんで、叩き落ちる水音に風景が反射し、俺は急にイッてしまった。
 胸だけの女の言葉を思い出し、シャワーを思いっきり熱くした。
 上がって来ると、沢田しかいなかった。
 俺はそのままベッドに転がった。
「出る気ない?」
 再建された斜塔のてっぺんから雑誌を取ると沢田は言った。
「ない」
 俺は答えると目を閉じた。
 沢田は暫く、雑誌を眺めていたようだったが、出て行った。
 何だか少し、悲しい気がした。
 俺自身も、沢田自身も。
 どうしてなのか、かわらないが。

 そんなことも梅雨明けとともに忘れてしまった。

 

 今年は、海を見たいとは思わなかった。
 去年、沢田は、麻子さんとドイツに二週間だけバカンスして来て、あとは適当な女の子と遊んでいて、
 その他は俺といて、あとは知らない。
 今年の沢田は、上記二つを省いていた。
 麻子さんの部分は省かれてしまった、と言った方がいいかもしれない。
「しっかし、暑いよ、ここ」
 沢田は今年の格別な暑さにはすっかりまいっていた。
 麻子さんは不在なことが多くなり、そのせいもあるのかもしれない。

 そんな中の、激しい夕立ちが気配を一新した日、会社には、沢田からの「来ないか」と言う初めての伝言が残っていた。

 涼しいには違いないが、沢田のところは落ち着かない。雑多な雰囲気は何処にもない。
「俺、キレイ好きだから」
 長年付き合ってきたが、初めて知った。
 何かを言い返してやろうかと思ったが、沢田の半分は本当にその通りなのだろうと思えもした。
 俺は、とにかく、シャワーを借りた。
 洗面台に並んだ歯ブラシ、メンズムースに洗顔フォーム、RとAと小さくイニシャルされたオフホワイトのタオル、
 具体的すぎて、笑えもしない。

 Rのタオルで上がって来ると、沢田のシャツを渡された。
「お前、身体、変わったな」
 沢田は俺が着替えるのを見つめていた。
「そりゃそうさ。けなげな肉体労働者だもんよ、俺は」
 と笑いかけたが、沢田は笑ってはくれなかった。
 今日の沢田は、何だかおかしい。
 目の下には、うっすらと影も差している。
 テーブルの上には、まだ乾いていないティーカップが二つ並んでいた。
 麻子さんは、出かけたばかりだったんだろうか。

「なーに、古いの聴いてんだよ、ジャパンか」
「ああ、セカンド。『OBSCURE・ALTERNATIVES』、かったるいとこがいいだろ」
「メタリカ、聴きてぇな。『ONE』!」
「これが終わったらな」
「古いついでに、ピストルズでもいいぜ。『ANARCHY・IN・THE・U.K』」
「これが終わったらな」
 沢田は不屈な奴でもある。
 
 本当にかったるくて、けだるい空気が部屋中に充満して、俺は心地良い疲労感の中で泳ぐままにしていた。
『曖昧なる選択』の調べの流れる、プールの中で。
 ガリガリにトンがったメタリカのギタアが轟いても、その気分は、ちょっと、引きずられていた。
 しかし、『俺は無政府主義者だ!』とがなり立てるジョニー・ロットンの声を聴いた時には、俺はすっかり、乾いていた。

「麻子、俺の子を三回堕ろして、子供、産めないんだ。もう」
 沢田は、突然、言い出した。
「お前……!」
 続けようとして、何も浮かばなかった。
「麻子の意思だよ。どっちも」
「どっちもって?!」
「だから、堕胎しなけりゃならない状況にするのも、堕胎するのも」
 沢田は俺に、嘘を付いたことは無い。
 その横顔は、何ものをも映さない。
 しかし、だからこそなのか、唇を噛み締めて、心の琴線を必死にかき乱したがっているような。
 それとも、プッツリと切ってしまいたいかのような。
 俺は何を言ってやることも出来ない。

「この間さ、パティちゃんに付き合ったんだぜ。産婦人科」
「えっ」
「真正直に受け取って、相手の承諾が要るんだけど、知らないからってさ、頼まれた」
「お前」
「俺のでも、卓のでも無いっていうからさ」
「俺はなぁ!」
「わかってるよ。パティちゃんにも、怒られた。俺はたまに付き合ってやってるよ。あの子、何にも知らなかったから、
 可哀想じゃない。それでも、ドジやるけれど」
「訊いて、いいか?」
「何?」
「お前、金、払ってるのか?」
 沢田はじっと俺の目を見据えた。
「ハハ。払う時もあるし、貰う時もある」
 沢田の瞳は、透明すぎて、俺には何も見えない。ますます凄くなっている。
 何に対してでもなく、いや、自分自身に対してか?
 俺を不安にさせるほど、危険過ぎる。

『キ・ケ・ン』

 脳細胞の選んだ言葉に、俺自身が、辛くなった。

 沢田は、そんな会話を既に忘れたように、並べたグラスにワイルドターキーを注いで、俺に渡してきた。
 何に乾杯するでもなく無言でグラスを合わせると、硬質的な音が時を逆撫でて流れる。
 沢田はグラスを見つめ、俺はそれを見つめる。
 グラスといつでも対になっていた煙草がないせいか、沢田の指には、何かを追い求めて疲れたような、そんな寂しさが、
 舞っている気がした。
 あの遠い日の花弁のように。

「ガラスがさ、最大限に、その存在を誇示している時って、どんな時か、わかるか?」
 俺は今、そんな話は聞きたくない気がした。だから、黙っていた。
 沢田は勝手に続けた。
「降り注ぐ日差しを煌びやかに反射している時か?」
「闇の中で、流動の時を映している時か?」
「手垢にまみれて、くすんでいる時か?」
「……。どれも違う」
「ガラスが、自身の存在を嬉々として確かめられる瞬間は、砕け散った時だ。
 粉々に、粉々に、砕け散った時だ。一瞬に砕け散る!
 それは、ガラスの機能という表面的なものの終末であり解放であり、何よりも純粋な完成だ。こんなふうに!」
「沢田!」
 沢田はグラスを投げつけた。
 頑強なベランダのガラスは、か弱い同類を跳ねつけて、グラスだけが、破片になった。
 褐色の涙が、強者の肌を弾けて伝い、弱者の上に溜まった。
 音が消えた。
 沢田は、それを凍り付いたように見つめている。

「沢田!お前!」
「わかるか? 自分が、産まれ出てきたところに、突き立てるって、感覚」
「えっ……!」
「俺が育ったところに、俺の精子が、ブチ撒かれて、ご丁寧に、実を結ぶんだぜ。凄い図だろう」
 あんまり何気なく静かに発せられた分だけ静まり返った空間にズシリと重い。
 しかし、何を言っているのかが、頭にうまく入ってこない。
 違和感だけが響いて、弾けた。
「沢田、何、言ってるんだ!お前!」
「母親の卵子と、息子の精子が、引っ付くんだよ」
「沢田!」
「これ以上の強固な絆って、あると思うか?凄まじいだろう」
「オイ!」
 沢田は微笑んでいた。豊かに、とても豊かに、微笑んでいた。
 痛かった。俺には、痛くてたまらなかった。
 外してしまえない視線が、狂気じみた笑みに、吸い寄せられて、吸い込まれてしまえないから、苛立つ。

「麻子にしてみれば、もっと凄いか。今は一部しか受け入れられないけれど、俺の全身を包み込んでいたんだからな。
 だから愛してる。熱烈に!愛し合っている!」
「沢田!」

 俺は、沢田を抱き締めていた。
 ほかに、沢田の言葉を止めさせる方法が、見つからなかった。
 沢田は、一瞬、子供のような無防備な瞳を現したが、すぐに、バリアに包み込んでしまった。
 沢田の最強の防護壁は、過ぎ去ったような笑みだ。どんな力も受けつけない。柔軟な笑みだ。
 自分を守る為のものが、自身に対する、心の底からの笑みだなんて……悲しすぎるじゃないか!

「……。ハハ、心配するなよ。ありがとう」
 沢田は俺の腕を解いて微笑んだ。
「わかってたことさ」
「沢田!」
「俺も、麻子も。わかっていて、それがわかっていて、それでも、互いの身体を求め合わずにはいられなかった」
 沢田は、やっと、微笑を解放した。
「麻子は俺を愛している。愛して、愛して、愛して。存在のすべてで愛している。
 自分自身を傷つけて、痛めつけて。それが俺への証しだと信じているかのように。
 そんな麻子を俺も愛している。愛さずにはいられないだろう。愛しくてたまらない。麻子が俺の何であるとしてもだ!」
「沢田!」
「呆れただろ」
 頭の中は混乱していた。
 沢田の瞳が空回りして、単語だけが浮遊し、結び付いてくれない。
 『いいや』の一言が言えず、やっとの思いで、首を振った。

「俺の戸籍はきれいだけれど、麻子のところに来る前から、うすうす気づいていた。
 だから、俺だけ置いて行かれたのも不思議だとは思わなかった。
 麻子は、育ての母より綺麗で、ナイーブそうに見えた。実際、その通りだった。母は思いっきり泣いてくれたよ、空港でね。
 俺が何も知らないと思っているから、今でもね。その実、どこかで、恨んでいるのかもしれないけれど」
 沢田から家族の話を聞いたことは無い。
「麻子は、生まれ立ての俺を、引き離されて、奪われた、女だった。どんな約束があったんだか、俺は知らないが、弟が生ま
 れたのと、海外赴任が決まったのは、同じ時期だった。偶然かもしれないけれどね」

「俺が、みんな、わかっていたって、言ってやったんだ。麻子に、ゆうべ。楽にしてあげたくてさ」
「泣きながら、愛し合ったよ」
「とても激しく。とても熱く。そして、とても哀しく」
「人ってさ、哀しい時が、一番、美しく燃え上がって見えるものなのかもしれない」
「言っとくけどさ、麻子は、俺の中に、おやじを求めている訳じゃないぜ」
「麻子は、人など、愛さない。自分から分離した俺以外は!」
「俺と麻子は、確かに、血さ。そういう人間なんだよ。俺は麻子を求めて、麻子も俺を求めて、タブーを美化して微笑める。
 そんな、人間」

「卓には、ちゃんと、話しておきたかった」
「どうして、あの子を、抱くか、お前にかわるか?」
「……。いや」
「……。だろうな」
「俺の欲しいものは、いつでも、神に背を向けさせる」
「俺も麻子も、ルーシェルを選ぶよ。神への愛ゆえ、サタンと呼ばれる運命に向かわざるをえなかったルーシェル。
 愛しているって気持ちは、同じなのに。神の愛は、公平という偽善の不公平に過ぎない」
 俺にはよくわからない。
 沢田の言葉がわからない!
「カミュだって言っているだろう。
 『不条理に関する瞑想は、非人間的なものに苦しむ意識から出発して、その行程の終わりでは、人間的反抗の炎のまっただ
  なかへと帰着する』 俺も、麻子もその段階まで来ているんだから」

「卓さ、中学の時の卒業文集で、自分で何て書いていたか覚えているか?」
 俺は首を振った。
「『宇宙船が完成したら、とりあえず、ケンタウルス座のアルファ星か、プレアードを探しに行く。じゃあ、バイバイ』。
 俺、後で調べたんだ。訊くのは悔しかったからさ」

 ケンタウルス座のアルファ星は、太陽系から一番近い恒星。
 プレアードは、プレアデス星団の名だけ残す伝説の星。

 

 流し見ていた新聞の文字の一つが浮き立って俺の視線を引き戻した。
『沢田麻子』
 借入れ金を抱えた急成長の会社が不渡りを出したと小さく載っていた。事実上倒産。
 沢田は何も言わなかった。俺の部屋にも来なかった。

 数日後、週刊誌の新聞広告欄には、
『遅れてきたシンデレラ伝説の崩壊』と書かれていた。

「世の中、暇な奴が多いから」
 そう言ったきり、沢田は麻子さんと何処かに消えてしまった。
 沢田の瞳は氷のように澄んでいた。
 触れたらきっとパリンと音を立てて弾けたかもしれない。
 出来るものなら、弾けさせてやりたいと思ったが、俺には触れられる術が見出せなかった。

 沢田は、望み通りのガラス玉なのだろう。但し、その表面はダイアモンドでコーティングされている。
 だから、傷は、中へ中へと突き進むしか無くて、ギシギシと軋む音が、反響して、共鳴して、表面を震わす。
 たかが、炭素の塊にすぎないのに。

 マンションには、暇な人間達のおかげで飯を食っている奴等が、随分と長い間、張り込んでいた。

 パティは相変わらず元気だった。
「あんた、ますます重いじゃん。暑いんだから、もっと軽い方がいいんじゃない?」
 俺は一年前の感覚が、心臓から身体中に絞り出されてくるような鈍痛の中にいた。
 もっと重苦しく、もっと切羽詰った、走り出すことすら出来ない、そういう鈍痛が身体中に詰まっている。

 なぜ、去年、俺はバイクを走らせなければならなかったか。
 押し付ける熱射に曝されねばならなかったか。
 それは、その理由を考えたくなかったからだ。

 今は、沢田の言葉を考えている。
 考えたいから、考えている。
 それしか、考えられないから、考えている。

  『息子』
  『神』
  『ルーシェル』
  『アルファ星』
  『プレアード』

 嫌な予感だけが、絡み付いてくる。熱も忘れるほどに。絡み付いて離れない。

 夏は、沢田のいないまま、通り過ぎようとしていた。

 

 ドタリと音がした。
「卓」
 かすかな声で、開いたドアから、転げるように沢田が入って来た。
「どうしたんだ?!」
「これさ」
 蒼ざめた沢田は、不思議な微笑を湛えてジャケットを開いた。あの微笑みではない。
「あっ!」
 脇腹には、異様なものが突き出ている。
 それは、ナイフの束だ。
「お前!」
 抱きかかえた身体が崩れる。
「麻子、もう限界だって言って、楽になろうって。麻子は非力だから……」
 簡単に言った沢田の顔は、真っ白だ。
「ボヤボヤしてねぇで、救急車呼べよ!」
 顔色一つ変えないで、じっと窓辺に背を持たせ掛けたまま、ただ見つめていたパティに向って叫んだ。
「うん」
 パティは返事だけして沢田を見つめた。 
 沢田はちらりとパティに微笑みを向けると俺を見つめた。
「いいよ、パティちゃん、呼ばないで」
 パティは小さく頷いて膝を抱えた。
「沢田!」
「俺、お前に、トドメ、刺して欲しくてさ」
「沢田!」
「悪いけど、ここ」
 腹に刺さったナイフを沢田は自分で引き抜いた。途端に血が吹き出して、沢田の半身は見る間に紅く染まってゆく。
 そして、左胸に手を置くと、ナイフを俺に差し出した。
 俺を見つめる瞳があんまり、裸だったんで、「どうして?!」と訊く代わりに、ナイフを受け取った。
「早く」
 沢田の顔は、ますます蒼ざめて、本当の透明になってゆく。
 握り締めたナイフの震えが止まる。

 『何か』が俺の中で一斉にざわめき立った。

 悲しみとも怒りともつかない、いや、むしろ、喜びにも近いような、奇妙な熱さが込み上げて、吹き出しかけた刹那、
 俺は沢田の胸に置かれた蒼白な指と指の間に、ナイフを突き刺した。

 そして、ゆっくりと引き抜いた。
 重なった俺の胸に、ぬくぬくと暖かいものがしみてくる。
 沢田は何の言葉も残さなかった。
 ただ、俺の首に絡み付けられた沢田の腕に一瞬、力が入って、そして、ゆっくりと離れてゆくのを、感じていた。

 動かなくなった沢田を抱き締めると、涙が出てきた。
 俺は声を上げて泣いた。
 その声さえ、喉に詰まって、吐き出してしまえない想いだけが、ギュウギュウと身体中に固まってゆくみたいだ。

 どの位そうしていたのかわからない。血の匂いが部屋中に詰まっていた。
 妙な呟きが聞えた。
 窓辺で膝を抱えたままのパティが、手を合わせて目を閉じ、
「何妙法蓮華経、南無阿弥陀仏、アーメン」と呟いて、でたらめな十字を切っていた。

 横にすると、沢田は微笑んだままだった。
 頬に付いた血の跡を、濡らしてきたタオルで拭った。
 血は出し尽くしたのか、もう止まっている。
「このままじゃ気持ち悪いよな」
 綺麗な顔に戻った沢田の笑みが『卓』と呼んだような気がした。

 ビシャビシャの沢田の服を脱がせて血溜まりに置き、身体を拭った。
 腹と胸の線だけはどうしても消えない。
 拭っても、拭っても、沢田の肌には紅が染まる。俺は、狂ったように拭い続けた。

「あんたの方、何とかしないからよ」
 いつの間にか、パティは俺の横に来ていた。
 俺は俺自身が紅く浸されているのに、初めて気づいた。腕も胸も腹も、沢田の血が鮮やかに張り付いている。
「バカなのよ、あんたって、やっぱり」
 パティは、ありったけのタオルを持って来た。
「脱いじゃいなさいよ、沢田みたいに。ほら、自分で拭いて」
 一枚を俺に押し付けると、沢田に残っている紅を丁寧に拭き取り出した。
 まだ柔らかく薫るほどの肌に、何が残っているのだろう。
 ぼーっと見つめながら、俺は何も考えずに服を脱ぎ捨てていった。

「なんか、眠ってるみたいね」
 ベッドから剥がしてきた毛布を沢田に掛けながら、パティは言った。
 本当に、ただ眠っているみたいな沢田だ。
 いつの間にかしっかり着替えていた俺は、沢田を毛布のまま抱き上げると、ベッドに寝かせた。
 沢田はずっと微笑んだままだ。その傍らにしゃがみ込んで、俺はじっとその笑みを見ていた。
 パティは、その間、大きなポリ袋を持ち出してきては、血溜まりを俺と沢田の服でふき取っては詰め込んでいた。
 それでも溢れている血に、新聞紙をかけて、ペタペタとしみ込ませては、丸めて詰め込んで、また広げてと繰り返していた。
「お葬式なんだから、キレイにしないとね」
 俺に言うでもなく呟きながら動いていた。

 朝になった。
 血溜まりは消えたが、褐色の大きなしみは残っていた。
 パティはそれがすっかり乾いているのを這うようにして確かめてから、押し入れの隅にあったシーツをクリーニングの袋 
 から出して広げた。
 部屋の中が一変した。
 広げられた張り詰めた純白が、大きいほど哀しい。

 パティは満足げに見渡すと、俺の横に並んでしゃがみ込み、同じ様に沢田を見つめた。
「どうしてだ?」
 俺はフと、パティに訊いた。
「沢田、いい奴だったもんね。あたしには……わかってたんだけどな……。やっぱり、バカなのかな」
 そう答えたパティは、それきり何も言わなかった。

 少し居なくなると、真っ赤な薔薇をどっさり抱えて帰って来た。
 ぼんやりと見ている俺には目もくれず、包装を破ると純白のシーツの上に撒き散らした。
 赤と緑が散らばって、その中央に血のこびり付いたナイフを真っ直ぐに突き立てた。
 それをちょっと離れて眺めたパティは、
「ちょっと、さみしいか」
 と呟くと、自分の首から金鎖を外し、ナイフの束に絡めた。
「うん。うん。いいじゃない」
 パティはそれからカセットテープの文字を、一つ一つ確かめながら、探して「これ、これ」と、デッキにセットした。
 スイッチを入れると、やっと俺の横に戻って来て座った。
 流れ出したのはツェッペリン。
 派手な音が響き渡って流れて進んで、アコースティックの音色に変わる。
『STAIRWAY TO HEAVEN』
 静かに始まると、パティの横顔にも涙が伝った。

 俺の中で燻り続けていた大きな『何か』が、その姿を初めて明確に輝かせたと感じた瞬間、それは砕け散った。
 そんな気がした。

 外は明るくなり、また暗くなった。
 沢田は笑みを浮かべたまま硬くなった。
 そっと伸ばして触れてみた指に伝わったのは、沢田の抜け殻だった。

「行こう」
 パティは俺の肩を突っつくと、立ち上がった。
「あんた、少年Aじゃ済まないでしょ。面倒なんだから、自殺ホウジョとかなんとかってさ。あたしも大変だったもん」
 驚いてパティの顔をまじまじと見つめた。
 何を言っているのかがすぐにはわからなかった。
「あたし、あんたも沢田も好きだからさ」
 パティは今まで見せたことのない優雅な表情で微笑んでいた。

 テープをエンドレスにセットしたまま沢田の抜け殻を置き去りにして部屋を出た。
 行きたい所など有るわけもない。

 『 沢田は今、何処にいるのだろう…… 』

 夜の海は一年前と形相が違って見えた。
 パティの秘密の場所だと連れて行かれた所には、古びた小さな木の船があった。
 引きずり出すとギシギシと音を立てた。

 真っ暗な水面のうねりは、寝息を立てて熟睡中の生き物のようだ。
 船底に横たわると、ぞっとするほどの数の星が瞬いていた。
 なのに、アルファ星も、プレアードも見えない。

「これから、どうなるんだろうな」
 俺は何にともなく呟いた自分の言葉に呆れた。
「どうなったって、いいじゃない。生きてるなんて、結局、風だもの。吹かれて、吹かれて、ただ舞っていればいいのよ。
 何も考えずに」
 パティの声だけが、トロトロした水音に混じって響く。
「……。そうだな」
 
 一年前。俺が信じていたのは、こんな風にして出て行く船だったのだろうか。
 今、あの岸壁で、沢田が見ていてくれているのかもしれない。
 いや、沢田はもっともっと遠くを見ているんだろう。
 いや、それも違う。

 『 沢田は今、俺のところにいるんだ 』


「ねぇ、抱いてよ。初めて会った時みたいに、強引に、服、破ってさぁ」
「えっ」
「もう血は流せないけどさ、あたし。また、何かが始まるかもしれないじゃない」
 パティは伸ばした腕の指先で、星を数えながら言った。
 俺は身体を起こすとパティの胸のあたりの布を掴んで、思いっきり引っ張り上げた。
 ボタンが弾け、古い板に当たって、海へ溶けた。

 パティは、大きな笑い声を立てて、ケタケタと笑った。

 


WRITTEN 1989