愛玩  

 

Act.T  

 

互いに傷つけあうことでしか、確かめられないものがある。

幾百、幾千の時を超えて。

そして、なお、奪い合い、貪り尽くしてしまうその日まで……。

いたわしいほどに、愛しき者よ。

 

Act.U 

 

「だったら、そうしてみろよ。俺の目の前で、やれよ。さぁ!」

「Kouichi!」

「さん!だろ、さん!」

「……。」

 Junjiの手にしたナイフの刃先は、その左手首に置かれて震えた。

 Kouichiの瞳は、微動だにせず、Junjiの瞳を射抜いたままだ。

「どうしたんだよ。早くやれよ」

 Junjiは、突き刺さるKouichiの瞳と言葉から逃れるように、刃先を見つめる。

 艶やかに妖しく鈍い光は、微妙な振動に心を映し、遠い意識を呼び起こす。

 

「僕だってね……」

 Junjiは、その刃を、青白い皮膚に滑らせて、ゆっくりと引いた。

 Kouichiの瞳は、動かない。

 薄い皮膚に残された紅の細い線は、次第に広がって、したたり落ちる。

 

「それで?」

「……Kouichi」

「何度言わせる。さんだろ、さんだ!」

「Kouichi、さん」

「それで?」

 Kouichiの瞳は、初めて動き、その線に向けられたが、冷ややかに鮮やかなその色は、

 かすかにさえ、曇らない。

 

「僕だってね……」

 Junjiは、その手首を掲げて、したたり落ちる紅が、腕を這うのを見つめた。

「こうして、生きているんだから……。こんなに、こんなに……」

 続けるべき言葉は、肘に届いて雫となった紅とともに、沈んだ。

「だから?何だって?」

「……」

 Junjiは眼を閉じた。落とした言葉が繋げない。

 

「向けたいなら、向けてみろよ!そのナイフ!本当に向けたいのは、お前にじゃないだろ!」

 鼓動の高まりにつれ、雫の落ちる間隔が狭まり、血の匂いが、空間を犯してゆらぐ。

「何本作りゃ、気が済むんだよ。そんな半端なもん!」

 そう吐き捨てたKouichiは、一度天を仰ぐように髪を両手で掻き揚げてから、頭を振った。

 軽やかに舞った髪が、淀んだ空間を、弾いて飛ばす。

 そして、身体を真っ直ぐにJunjiに向けた。

 

「今度こそ、しくじるなよ。やれよ!ほら!」

 Junjiの右手ごと、そのナイフを自らに引き寄せたKouichiの瞳は、驚いて見開かれたJunjiの瞳に

 真っ直ぐにぶつけられた。

「Kouichi……!」

「ほら!やってみろよ!Junji!」

 掲げていた左手を、そっと降ろすと、右手を包まれているKouichiの両手に添えた。

 生温かいしたたりが、Kouichiの手をも満たす。

「終わらないぜ。お前が、やらなきゃ……」

 Kouichiは、優雅に微笑んだ。

 微笑んだまま、ゆっくりと、片手で、その紅に染まった手首をとると、口元に運び、軽く歯を当てた。

「あ……」

 Junjiの蒼ざめた顔は一瞬歪むと、次第に柔らかな色が差し始め、唇の端が、かすかに動いた。

 

「どうしたんだよ。いいのか。このままで」

 握り合ったままのナイフを持つJunjiの手の力が抜けた。

 ナイフが、ポトリと転がった。

 それを待ったかのタイミングで、手首の傷は、Kouichiの掌で、きつく絞り上げられた。

「あ…っぅ」

 Junjiは再び歪めた顔で、眼を伏せた。

 苦痛が苦痛を増幅する。何の苦痛であるのかが、わからなくなる程に。

 

「お前な、まだまだなんだよ。フッ」

「……」

「早くな、俺を殺れるだけの、「男」になれっつうんだよ。

 何もしてやれないんだから……俺は、お前に」

 Kouichiは、握り締めていた掌を開いて、乾きつつある傷口を確かめると、放り出した。

「また、ずい分、派手に汚れちまったじゃねぇか。片付けとけよ!」

 言い残したKouichiは、シャワールームへ向った。

 言い残されたJunjiは、床に散らばる血痕の中で、Kouichiの歯型と指の跡の残る手首を見つめた。

「フッ。フ……。ハハ。……。やっぱり、失えない……失いたくない」

 Junjiの瞳から、こぼれ落ちたのは、蒼ざめた雫。

 

 シャワーの水音に混じって、Kouichiの声が響く、

「お前!死ぬんだったら、絶対に、俺の目の前でだからな!勝手なことしたら、許さないからな!」

「……」

「わかってんのか!」

「……ああ!わかってるよ、Kouichi!」

「また!さんだっつうの!さん!」

「……」

「おい!」

「ああ、わかってるよ!Kouichi、さん!……だから……」

「あ〜ん?!何!」

「何も!」

 

 Junjiは、シャワールームへと脱ぎ散らされたKouichiのお気に入りのシャツを引っ張ると、

 ナイフで裂いて、包帯を作り、傷口に巻きつけた。

『どうせ、僕が選んだんだから。また、選んであげる』

 Junjiは、水音を子守唄に、いつしか、とても穏やかなまどろみの中で、微笑んでいた。

 

                             1999.9.14

 

Act.V    

 

誇らしげな程に煌く蝋燭の炎は、床に直接置かれた銀の燭台の上で、

意志のある生き物の如くに蠢き、対峙する漆黒とプラチナブロンドに陰影を刻んでいる。

「それで?」

 優しいウェーブのブロンドの間で、絡めた指が遊ぶ。

「だから。もう、すべて、こうして燃やし尽くしてしまってもいいんじゃない?」

 真っ直ぐに床まで達した黒髪が、かすかな動きに揺れる。

 

「なぜ?」

「だから……」

「どうして?」

「だから……」

 

炎で創り出された微風が、その空間を巡る。

閉ざされた空間には、向うべき方向を示す術がない。

 

「いやだね」

立ち上がったブロンドの動きが、炎を大きくゆらめかせ、微妙に保たれていた均衡を瞬時に崩した。

 

「……」

 

漆黒の溜息の行き場はない。

行き場のない溜息は、小さな波紋で、炎を巻き込みながら、発せられた場所に還る。

還元された熱い溜息は、微笑に変わり、瞳に昇って強い光を放つ。

 

「僕は、見つけてしまったから。そう。僕がどうしたいのかをね……。

 もちろん、それは、君がどうしたいかってことでもある。

 すべてを感じてしまったんだ、今、この瞬間に」

 

「ん?!」

 

向った光に捕えられた対象は、一変した気配の中で、それを見下ろす。

 

「わかったよ。君が望んでいることが、やっとわかった。ねぇ、Kouichi!」

「……。Junji、お前!」

 

ゆらめく炎を支点にして停止した、太陽と月の天秤バランス。

互いの瞳に映しているのは、炎の中の互いの姿。

月は、そっと、息を飛ばした。

嬉々としてその存在を誇示していた炎は、静かなノイズの断末魔でざわめいて、凍り付いた。

 

大きな風が起こった。

果てしなく展がったブラックーホールの軋みは、かすかな悲鳴を飲み込んで、

何かを……超えた。

 

               1999.10.21